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社会人ちゃんの日記

付き合ってやってくれよ

 

『付き合ってあげてもいいかな』最新話の展開を知って、商業版を全巻購入した。

元々Twitterで知り合った方がリンク張ってた商業版から存在を知った作品なんですけど、私は同人版の「付き合ってやってよ」があまりにも好きで、同人版だけ買って商業版は無料公開中に読んだことがある程度の状態だった。

けど、最新話の、みわから冴子への「好きだよ」を見た時に……オタクは……………………………………

 

booth.pm

 

※『付き合ってあげてもいいかな』(たみふる、小学館、2024年)最新話まで および 『氷』(アンナ・カヴァン山田和子訳、筑摩書房、2015年)核心部のネタバレを含みます。

 

 

 

オタク(一人称)は思うままにならないことを表した作品を好んでいるので、大学というモラトリアム空間の中で人間が付き合ったり別れたりしている有り様の描かれる本作、かなり好き。

『チーズ・イン・ザ・トラップ』も好きです。大学生の偶像劇を好んでいるのかもしれない。

 

 

本作のメインキャラクターである冴子とみわは作品冒頭で「同性が好きって人に出会える確率は少ないし」「普通に友達だし悪い人じゃないし」という理由付けで交際することになるものの、先に好きになってしまった側が「女性と付き合えてセックスできていることに舞い上がっているだけで、この子は〝私のこと〟が好きって訳じゃないんだろうな」ということをやがて察し、それが耐えがたくなってしまったことによって破局するカップル。

要は「最新話近くに至ってここが元鞘に戻るかも!という展開」をお出しいただいて今、オタクは激アツになっている。

 

urasunday.com

 

 

元鞘展開に戻る度、オタクの脳裏には昔読んだ四コマ漫画の「(この球団は)ワンシーズンの時間を掛けて振り出しの状態に戻ったってことだよ!」「へーそらすごいな」という台詞の往来が過るんですけど、ここの元鞘はただ「最初の状態に戻った」ではない。

最初期の擦れ違いと、彼女たちがそれぞれ別の相手と交際をしていた期間に積んだ経験がなければ解放されることがないであろうステージなので、振り出しに戻るというのとはまた違うんです。

これは非常に稀有な、「やりなおしの機会」を与えられた状態に近しくないですか? やり直しの機会にあたって、これまでのストーリーの軌跡をたどりたいと思って商業版1巻から現状最新刊12巻まで購入しました。

 

 

オタクは不如意の物語を好んでいるので、環ちゃん周りの話が大好き。

気持ちはあるのに身体が伴わない。身体が伴わなければ、そのようなものとして見てもらうことができない。応じる気持ちだけでは彼女を満たすことができない。どうにか付き合ってやってくれませんか? 一緒にランニングなどをなさっていただいて、そちらで性欲を発散して頂く等して、どうにか、でもみわさんはね、ランニングで身に着けた体力を元手にいっそう性に磨きがかかる。愛しているのに身体が伴わない。

オタクはここがすご~~~~い好きで、何とかしてどうにかなってほしいが、どうにもならなかったこの先の「彼女は小生意気」が良過ぎても~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~どうにか付き合い続けてくれとも、言えない。どうにかなりませんでしたか? どうにもならなかった結果、今のみわさんはトラウマを背負っておりセックスが怖い状態になっているんですけれど、でも「肉体接触は怖くないよ~」みたいなセラピー状態の今ここでの「好きだよ」はどういう処理をされるんですか? やばい不安になってきた。

 

 

同時期に『氷』を読んでいた。

当初世界が氷結して終わる系のSFだと思ってたら、なんか後半からなんか、なんか お前そうだったん?という感じになり、どこを経由しようと最後はこのラオウの隣に居れば良い! 終わる世界、助手席の少女、走る車END。ハッピーを詰め込んだような車が世界が終わるまで走り続ける姿を、凍り付く世界の中でオタクは見送った。

 

これなんですけど、

それこそ、少女が「私」と交流を持った最初の段階、せめて「私」と少女が半強制ながらに連れ立って南国に避難し、彼女がブランドものに関心を持って主体性をはぐくみ、国のパレードではスミレの装いをするような時期に、もうちょっとどうにかならなかったんですか? 

何故南国が荒廃し、長官が「私」の来訪から「私」が少女を手放したことを知って動き出すような、諸々あって状況が悪くなってからようやっとその話になるんですか? と思ったんですけど、

物語冒頭から「母親からの虐待を受け続け」「虐待を受けるものとしての姿勢が染みついてしまった」少女が初めて母親を始めとするあらゆる虐待者(それは最初の夫、「私」、そして「長官」であったりするようなキャラクター)から離れ、南の島で自分で日銭を稼いで貝の殻のような自分の居場所を得て初めて、「あなたが戻って来るかもしれないから」「自分の意思でここに残った」という自分の思いに気付くことができたのではないか? というところに思い至って、まあ、納得した。

 

最初に『氷』を読み終えた時にはとんだ肩透かしを覚えたんですけど(SFかと思っていたらなんか全然違う読後感を喰らい、前に読んだ『滅ぼす』を思い出していた。)、チョコレートを手渡された助手席の少女が、この状況でなければ微笑みのように現れたかもしれない口角の引き攣りめいた表情を見せるまでには、彼女があらゆる虐待者から逃れた状態で、自分の足で立って己の殻を作り上げるというその時間が必要だったのではないか。しかし、本作は基本的に「私」の視点で物語が進むので、その時間で少女にとっての虐待者たちの内の一人でもある「私」は少女から離れて南の島に行ってみたり、「長官」に会いに行ってみたりする。なのでなんか、急転直下に感じてしまって、「えっ、お前、そうだったの?」「最初からそう言えばいいじゃん」みたいな、身もふたも情緒もない読者が発生する。

 

個人的には結局「長官」って何だったの? というところに若干引っかかりを覚えなくもないですが、「そもそもそういうものです」と言われればまあ納得できなくもない。

「私」の主観で進む地の文では「私」が時折感じる「長官」とのシンパシー 自分たちは合わせ鏡のような存在で、生き別れの双子のような……という強い強い共感を感じるという描写が複数回ある。

これはおそらく、「少女」を虐げ支配する存在として現れる「長官」と同様、「私」もそのような支配的な感覚のある人物であることを知らしめる意図もあったのでは? と思いますが、

「私」は「私」で、「長官」が絡まなくても「少女の細すぎる腕を戒め」みたいな感じで結構虐げる妄想を続けていますし、「長官」の存在は物語が動く上で重要なファクターではありますが、あまりにも都合が良過ぎないか? 「私」と「少女」が再び相まみえるための舞台装置にしてはちょっと豪華すぎませんか、この人。

とはいえ、この話って「作中世界」がこれから先どうなるかというところを主軸にしたものではなく、ひたすら「私」を主にした話ですし、やがて巨大で荘厳な氷柱に取り囲まれて終わる世界がどういうもので、「長官」はそこでどのような役割を持って、何故「少女」に執着し……とかは全て「些末」で「どうでもいい」と切って捨てることも出来なくはないけど……

という釈然としないような気分で、本編の後にある「迷う話」から始まる川上弘美氏の解説を読んでからやっと、迷っていた読者は(ああそういうことか)と腑に落ちた感じがあるんですけれども、この「解説」について感想を記録したツイートが何故か見つからないので、読了当時何を思ったのかをもう、思い出せない。深刻。Twitterを外部記憶装置にしてはいけない。戒めです。