tanpa

社会人ちゃんの日記

すばらしい新世界

 

最近『すばらしい新世界』を読んだ。

オルダス・ハクスリーという当時のイギリスの名門貴族的な家に出自を持つ著作家が1932年に発表したディストピア小説で、これまでわたしもオタクの端くれとして随所で擦られ倒しているその署名ぐらいは知っていましたが、本文を実際に読んだのはこれが初めてだった。

この著作が発表された1932年は、日本周辺では満州国の建国宣言、第一次上海事変五・一五事件アメリカでは初の大西洋単独無着陸飛行に成功した有名な飛行士リンドバーグの長男誘拐事件、アメリア・イアハートによる女性初の単独大西洋横断飛行、翌年の1933年にドイツではナチ党が国家政党になります。第一次世界大戦第二次世界大戦の間の時期(戦間期)、1929年に発生したアメリカ発の世界恐慌が、一部の社会主義国を除いて広く不景気を齎している時期。そういう時代。

パソコンだったかAIの父と言われているアラン・チューリングケンブリッジ大学に在学中アインシュタインは1916年に相対性理論を発表済でこの年に渡米、BBCが定期試験放送を開始(白黒テレビ)、同年に同社は海外向けラジオサービスを開始、生活としてどんな感じなのかなと思ったんですけど多分上流の方の家庭をイメージするなら窓際のトットちゃんの生活描写にあるようなものなんだろうなと思いました。あくまでイメージなんですけど、

 


www.youtube.com

 

本文のあらすじは以下の通り。

 

西暦2540年。人間の工場生産と条件付け教育、フリーセックスの奨励、快楽薬の配給によって、人類は不満と無縁の安定社会を築いていた。だが、時代の異端児たちと未開社会から来たジョンは、世界に疑問を抱き始め……(光文社「すばらしい新世界」光文社古典新訳文庫「内容」より)

 

解説によるとこれはウェルズの『神々のごとき人間*1』に対する反発として執筆・発表された作品とのことですが、2024年現在に読んでも「やがて起こり得るディストピアみたいだ」と思える時点で驚異的な作品なんだろうなと思った。

例えば過去に発表されたフィクションにおいて、「労働人口の減少」という問題に対する回答案として「AI・ロボットによる代替」というものを提起されても、現時点の目からそれを見ると「でもそれって導入に初期費用が掛かるし、設定するのは人間だからなんかめちゃくちゃになるし、結局人間をこき使った方が安上がりだよね」という見方をしてしまう。一方で本作の「各階級に割り振られる労働に最適化された人間を工場で生産(肉の歯車であらゆるパーツを回す為、省人化の方向で話が進んでいない。)」というと、「ああそういうもんか」とスッと入って来るんですね、恐ろしいことに。

 

 

 

「新版に対する著者のまえがき」では、「本作で明確にしくじったところは原子力エネルギーについて一切触れていないことである」という感じのことが著者の手によって書かれていますが、本文中でインフラやエネルギーについて触れられている訳ではないので、そこまで違和感もない。

ソーマは明確に薬物ですし、作中で最も階級の高いアルファ階級に属する登場人物たちが移動にいちいちヘリコプターを使うのは、現時点の目で見るとかえって最先端の様式のように見える*2。触感映画を映画館で見るのも、4DXの進化系として「未来らしいもの」とイメージすることができる。なんか凄いもの読んじゃったな。

 

note.com

 

「それこそが」と所長がもったいぶった口調で言う。「幸福な人生を送る秘訣なのだよ――自分がやらなければならないことを好むということが。条件付けの目的はそこにある。逃れられない社会的運命を好きになるように仕向けることにね」(オルダス・ハクスリー著、黒原敏行訳『すばらしい新世界』光文社、2013年 p.25)

 

労働生産に前向きであったり社会活動に積極的な性質を持っている人間が当然の帰結としてイキイキ活動しているのを見ると、これになる。こちとら「志事」やら「仕事を通じた自己実現」という用語を見ると尻を捲って喧嘩腰になってしまう(人間は労働の為に生産された機械ではないため)ものの、現状どうしたって自分がやらなければならないことを努力せず好み、適応に成功して社会に受容されることは、確かに幸福を感じる為に重要なひとつの要件だろう。

自分としてはこれはあくまでひとつの観測できる現象であって、これを共同体維持のための美徳とまでにするのは、あまりにも既得権益層に都合が良過ぎるので気に食わないんですけれど。

 

 

 そう遠くない昔には(ざっと一世紀ほど前だ)、ガンマ階級やデルタ階級、さらにはエプシロン階級にまで、花が好きになる条件付けを行っていた――特に花だが、それに限らず自然一般を愛するように。そうすればできるだけ多くの機会に田舎へ出かけたがり、交通機関を利用してくれると考えたのだ。

「なのに交通機関を利用しなかったんですか」と質問をした生徒が訊く。

「いや、大いに利用した」と所長は答えた。「しかしそれだけだった」

 サクラソウや自然の景色には重大な欠陥がひとつある、と所長は指摘した。それは無料で愉しめる点だ。自然の愛好は工場に需要をもたらさない。そこで、少なくとも下層階級に関しては自然の愛好をやめさせることにしたのだ。自然の愛好はやめさせるが、交通機関を使いたがる傾向は消さない。たとえ自然が嫌いでも田舎にはどんどん行ってもらいたいからだ。問題は、サクラソウやきれいな景色以外の、もっと経済的に健全な動機を何にするかだが、その答えはやがて見つかった。(同上、pp.33-34)

本文ではこの後に「高価な器具を使わなければ実施できないスポーツを好むように刷り込む」という言葉が続く。

失礼な話ですが、これに同僚を思い出した。マイクロマネジメントの跋扈する職場において共に最下層として参画し、マイクロマネジメントとこれに端を発するパワーハラスメント的な圧力を受け続けて来た同僚は既婚者であり、趣味はバイク。最近はフルローンを組んで車を買ったということを、乾いているものの晴れ晴れとした笑顔で教えてくれた。

昨冬この同僚はいっそ恫喝めいた叱責を連日受けており二週間ほど席を開け、このまま戻ってこないということはこの同僚の職務分も私にひっかぶって来るのかと覚悟したところで驚くことに戻ってきた。当時の私としては、共にここに埋まってくれる人材が戻ってきてくれるのは喜ばしいことでしたが、しかし、同僚の身の上に起きている苦痛を目の前で見ている側としては、手放しで喜べる気持ちでもなかった。

もしもこの同僚の趣味がより金のかからない(例えばインターネットサーフィン)もので、フルローンなんてものを組んでおらず、他人と生計を一にするようなことをしていなかった場合、あの冬のようなカムバックをすることは無かったのではないか? あれは「金銭的な必要があるから劣悪な環境にも戻らざるを得なかった」ように感じなくもないし、そこで同僚は今も粛々と業務をしている。

 

 

 

乱暴な言い方をすると、十七世紀のいわゆる「科学革命」以来、ニュートン力学がすべての学問の手本と目標になり、「学問」=「科学(的)」=「客観(的)」という「思想」が確立し、「学問」を名乗りたい研究分野はことごとくデータを証拠として。客観的なふりをし始めたのである。要するにみんな「ニュートン力学」になりたかったのだ。だから社会「科学」であり、人文「科学」になる。データを選ぶこと自体が主観によっているのだから、人間のすることに客観性などあるはずがないのに、客観神話は猛威を振るって現在に至っている。(同上、403ページ)

これは本文ではなく植松靖夫氏の解説ページの感想なんですけど、引用部分のことはちょっと前の大学(人文科学)でも延々繰り返されていたよな、というようなことを読んでいて思った。多分今も、似たようなことを繰り返している部分はあると思います。

また、大学で理系だった人と「大学で専門としたこと」の話になると「おたくはデータもあんま無いのに大変だね」ということを言われますが、データの取捨選択の時点で主観が入っているという点で、あんたも他人事みたいな面してる場合じゃないよとも思う。

 

*1:解説に書かれている記載。メジャーな邦訳ではおそらく『神々のような人々』

*2:治安の悪い都市の地上を回避してヘリコプター移動をするという行動様式は格差が極端な都市部の富裕階級のそれとして既に存在する。またドローンの発展の亜種と新技術を活用した「スマートシティ」構想の一環としてドローンタクシーを実用化しようというニュースを見るこの頃だと余計に「未来的なもの」としてイメージしやすい。