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社会人ちゃんの日記

人間ってなかなか死なない(フォークナー著、高橋正雄訳、『響きと怒り』、講談社文芸文庫、1997年)

上司との折り合いが、悪い!

 

管理職と平社員の間に立つことが想定されている何らかの役職者が存在しない状態でここ数年、管理職である上司側は「中間に立つことを想定される役職者」程度の労働を求めてくる一方、こちらとしては「役職者」に宛がわれるような昇級もない状態でそんなタダ働きしてやって堪るか、突如そんなことを言われてもこちらとしては対応ができない。引継ぎもないし、前任者も消えてる。

「取り敢えず握ってみて」と言われて鉄棒握り始めた人間が、そんないきなり大車輪できますか? こっちは最初から逆上がりだと聞いてるんですよ。は? 知るか。そんな感じ。そもそも先方が提示してくるレベルというものが、恐らく組織内にある共通の尺度のものではない。どこから持ってきた尺度ですか? それは。

 

 

おんばひがさで労働をさせて頂いているだけで苦痛なのに、できもしない大車輪を求められて意味の分からない詰めが始まるとも~~~~っと辞めたくて毎営業日「助けて!」とあてどもない救いを求めながら枕を涙で濡らしていますが、ここ最近は「今日と同じ明日が来るとは限らないし、何が起きるかもわかりませんからね」と気持ちを切り替え、ひとまず寝て起きて出勤するんですけど、

 

長期間にわたって勤労を続けている人間って、なかなか健康。

 

この世って得てして一寸先は闇、何が起こるかわからないと言われるものですが、今日明日という時間の尺度だと、意外と人間って、どうにもならない。どうにかなるどころか、風邪を引きもしない。あいつ、健康すぎるだろ。

 

この平常、健康、「昨日と同じ今日」の積み重ねはつまり地盤の沈み込みのようなもので、これが積み重なった先にある日突然グラっとくるということかもしれませんが、私が救いを求めている直近で、意外と、元気。どうにかなる気配、まるでなし。

 

フォークナーの『響きと怒り』を、営業日と営業日の合間に読んでいた。Twitterで見たから。「アメリカ南部の名門コンプソン家が、古い伝統と因襲のなかで没落してゆく姿を、生命観あふれる文体と斬新な手法で描いた」*1というものです。

 

 

※以下、『響きと怒り』本文内容のネタバレを含みます。

 

 

 

本編は大きく分けて四章構成となっており、それぞれ章別に主人公が違う群像劇方式の話ですが、一章と二章の語り口と時系列が本当にわかりづらくて、ここを読むのに三週間ぐらい掛かった気がする。

瞬きをする間の文章と文章の間に斜字体で過去回想が入り、それが終わったかと思うとこれまで一度も登場していない新たな人物が、容姿の説明や主人公との関係性の説明もなく、突然名前だけで登場する。

 

翻訳小説(特に推理小説)って、表紙を捲った裏(表紙2)の辺りにだいたい「主な登場人物一覧」が書かれている。私はこれまで一度も、それをまじまじと見たことがなかった。読み始める前から見たってどうせ忘れるし、小説の本文中で新しい人物が登場したらだいたい、それなりの説明(例えばその人物の容姿や服装、振る舞い方や態度、そして主人公との間の関係性等)を伴うと相場が決まっていると思い込んでいたんですけど、私この小説で初めて、「突然出て来た知らない名前を確認する為、登場人物紹介に立ち戻る」という挙動をした。『白夜行*2や『百年の孤独*3さえ読み流していたのに。

しかも、そうやって「主な登場人物一覧」を度々見返すような動きをしても、まだ混乱する。「共通する名前を持つ異なる登場人物」が主な登場人物として登場するから。ある程度読み進めれば取り違えようもない二人ですが、第一章、第二章と進んで第三章に入った時点では凄い混乱する。直前の第二章の主人公と第三章に現れる人物が同姓同名の別人だからです。

 

こんなにわかりづらくって、いいんだ!

二次小説とかいう趣味の極北を信じがたいことに十数年近く続けていて、その中で私は「二次創作小説なんてものはどうせ自分しか読まないんだから、自分にさえわかればそれでいいだろう*4」と強く信じているので、時々インターネット(Twitterのタイムライン)に現れる「創作者たるものわかりやすい(伝わる)文章を書かなければいけない!」という二次創作者の意思表明ツイートを唾棄しているところがある。

が、結構なわかりづらさのものが、こうして満を持した文庫本としてお出しされているのを見ると、ズブの素人の書くものの「読みづらさ」と、評価を得た翻訳文学の「読みづらさ」って全くレベルが違うものだという前置きはありつつ、「こんなわかりづらくって、いいんだ!」という曲解をし、勝手に元気になっている。

 

tan8.hatenadiary.jp

 

第一章・第二章の主人公は、それぞれ白痴*5の末っ子ベンジャミンと、色々思い煩った結果最終的に入水自殺する長男のクェンティンの一人称視点で、台詞らしいものも鍵括弧では括られないし、改行なしで時系列が十年近く飛んだりする。

「幼い兄弟が祖母の葬式?にいくかいかないか」みたいな話をしていたかと思うと、次の行で「長女キャンダシーの結婚式にベンジャミンが姿を見せないよう、家で仕えている黒人奴隷がベンジャミンと一緒に厩かどこかに閉じこもって酒を飲ませて酔わせておく」というようなシーンが差し挟まり、冒頭でベンジャミンは家の敷地とゴルフ場を分かつ柵の間に顔を突っ込んでゴルフを見ていたと思うんですけど、じゃあそれっていつの話? みたいな、時系列がどういう流れになっているのか全くよくわからなかったりするんですけど、あとがきによると全て「各人の一日の記録」らしいので大変。これ、一日? こんな情報の詰め込み方をしても、いいんだ! 一生懸命字面を追いながら、オタクは勝手に元気になっていく。

 

一方で第三章は、「主人公(ジェイソン四世)の頭がはっきりしている」というと角が立ちますが、物質的で何かとあまり回想をしない性質ということもあってか、第一章・第二章で断片だけ見せられてきたものを時系列順に繋ぎ合わせて、「あれってこういう状況だったんだな」と見るような感慨を得ることができる。文章も大体時系列に流れていくし、回想前にはちゃんと「回想に入る前振り」が差し挟まって、読みやすい。

 

このジェイソン四世、貴族の名家であるコンプソン家の中では「珍しく物欲的な男」と登場人物紹介の中にあり、性格が悪いというか、何かひん曲がっているところがある。人柄に「やさしさ」というものがない。ニュースサイトを眺めていると時々リンクに出てくる、崩壊家庭や崩壊夫婦関係を戯画化した作品の中に描かれる「モラハラ夫」の記号ような、正義と品性の無さ。

作中では姉のキャンダシーが産んで家に置いていった子供(クェンティン)の為に送金した巨額の養育費を着服してクエンティン本人には厳しく当たり、実母に対しても「今はこの家を自分が養っているんだから、僕の言うことを聞いてもらいますよ」という態度のキャラクターなので*6、読んでるとだいたいこいつが悪いだろという気分になる*7

 

 

一方で、(キャンダシーからの送金をジェイソン四世の教唆もあって母キャロラインが手ずから燃やし続けていることは兎も角)一家の中で働き手は彼だけであり、(キャンダシーが自分の娘の為に送った養育費数千ドルを着服していることは兎も角として)彼が実母と、問題行動が多い(家でつらく当たられているので当然の結果としてグレている)姪、就労不可の四男と、一家に仕える黒人奴隷の皆さんを養っている。

ジェイソンは幼少期(ジェイソン四世になる前*8)から「コンプソン家らしい」気質を持っている兄姉からなにくれとなく疎外され、父には気に掛けられず、「お前だけが私の家の子供」*9と言い続ける母はその疎外感を助長させ、家の金は父親の酒代、兄(在学中に自殺)の学費、姉の結婚と弟の生活費に消え、「姉の結婚相手の銀行に勤める」という話は、奔放な性生活を送る姉が結婚既に他人の子供を宿していたことから離縁となったことで就職ごと破談になり、一家を養う為、生まれた南部の街の荒物屋に勤めている境遇を見ると、必ずしも境遇だけが彼からやさしさを拭い取ったという訳でもない(幼少期からなんかうるさくやさしさのないガキのため)ですが、それにしても、そうやってくさくさと生活をし、他人に対して捻じれた厭らしさを発揮するのもまあ、わからんでもないなという気持ちになる。

 

 

 

第三章の途中で姉キャンダシーの娘であるクェンティンは、彼女から見ておじのジェイソン四世が、クェンティンのための養育費をネコババして貯蓄していた大金をせしめて家出をし、サーカスの男と駆け落ちをする。

第三章の後半ではこれをジェイソン四世が頭痛と戦いつつ車をかっ飛ばして追うんですけど、ここを読んでいる最中私は正直、「このチェイスの末路としてこいつはどこかで死ぬか行方不明になるか、何にせよ消息不明の形で物語は終わるのだろう」と勝手に思っていた。

兄は在学中に入水自殺、姉は結婚後離縁されそのまま出奔、周囲は「いいところの貴族の血が入ってると狂うんだろう」というような目で彼を見ている、というジェイソン四世の独白めいた下りが入ってきたところで、クライマックスが見えて来てテンションの上がり始めたこちらも、「これは誰かしらの血を見ないことには終わらない話だろう」と予測しながら読み進めていたんですけれども、結局、そういう終わり方はしなかった。クェンティンを確保できなかったジェイソン四世は、素手で何事も無くホームタウンに帰ってきて、終わり。

 

続く後日談(「つけたし」)で彼は最終的にコンプソン家を畳み、親しい女性と事実婚状態で悠々自適な暮らしをしていると書かれていて、日々労働ですりつぶされている人間としては、ああよかったねというような感想を持った。

長期間にわたる介護を終え、何であれ自分の生活に戻れたという人の話やエッセイを見ている時に感じるような気持ち。

ジェイソン四世の穏やかな生活と引き換えに、一章の主人公であるベンジャミンは病院送りで天井を眺めているだけといような暮らしぶりですし、作者によると「作中唯一の英雄」とされているらしい長女のキャンダシーが家に留まれるような時代であれば、末っ子の境遇はまた違ったものだろうと感じなくもないですが、結局家に残ったのはジェイソン四世ですし、居ることができなくなった人が「もしもそこに居たのならば」と仮定したところで、どうしようもない。

 

最終的にジェイソン四世が家を畳んだことで解放されたコンプソン家に仕えていた黒人奴隷の皆さんについて、コンプソン家の人々のその後について饒舌に語る「つけたし」では「彼らはコンプソン家の人々ではない」と前置きをした上で「彼らは耐え忍んだ」とだけ書かれていますが、第三章中でこいつが悪いだろという感じのキャラクターであるジェイソン四世にも同じような感慨を、若干持った。

ジェイソン四世が、彼から金を盗んで、或いは「彼女に与えられるべき養育費を利子付きで叔父から取り返した」キャンダシーを追っている最中に行方不明にでもなったのなら、「彼もまた青い血を引いていたんだね」みたいな、彼がいつ発狂するかと思って眼差していた街の人間のような感想を持ったと思いますが、意外と死なない。元気。家を畳んだ後には現実的な幸福を享受し、何はともあれ自分の暮らしを持てているようでまあ、良かったね、みたいな。

勿論本文としては「コンプソンの家の人々に従属する身分であることを耐え忍んだ」という意味合いもあると思うので、これは南部の社会構造をまるきり理解していない部外者の感じ方と思いますが、こちとら現在の生活を維持する為に労働に耐え忍んでいるので、何かを維持する為に堪えがたい生活をしているように映った品性のないキャラクターに対しても、本人としては堪え忍んだということだろう、というような、そんな感じです。

 

 

ああしてフィクションの上に描かれた伝統と因襲ある家庭に何であれ隷属するように繋がれている皆さんを見て来た後に我が身を振り返ると、こちとらもう全然気安い労働者の身分なんですけど、気持ちの上ではだいぶ堪え忍んでいる。

メールで動悸、着信音で発狂。今日と同じ明日はないだろうという心持ちで勤務を続けている。ここから撤退戦をするにしてももう少し時間を稼ぎたいところですが、同じような来週を送っているのかと思うと、とても耐えがたいような気分になる。

*1:フォークナー著、高橋正雄訳、『響きと怒り』、講談社文芸文庫、1997年 裏表紙

*2:登場人物が多い

*3:登場人物が多い上に同じような名前が次々と現れる

*4:かといって自分も文章の規則に従って書かれたものの方が読みやすいと感じるので、自分が読み手となる他人の二次創作についてはその方が望ましいと思うし、数年越しに読み返す自作はとっちらかっていて読めたものじゃないことが往々にしてある。

*5:本文の記載ママ

*6:第三章の会話の大部分を占める母キャラロラインと次男ジェイソン四世の会話はだいたいヒス構文の応酬

*7:何となく第五人格の弁護士(フレディ・ライリー)をキャラクターイメージとして読んでいたところ、第四章でようやく描写されたジェイソン四世の立ち姿がまるきり同じような感じの描かれ方で、オタクは手を叩いて喜んでしまった

*8:なお、アル中の父親の名前もジェイソン(ジェイソン三世)

*9:母キャンダシーもコンプソン家には及ばないものの南部の貴族出身であり、コンプソン家には及ばない家柄の出であることに劣等感を感じている