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社会人ちゃんの日記

僕は、(任意のカップリング)を信じてます(ミシェル・ウェルベック著、中村佳子訳『闘争領域の拡大』河出文庫、2018年)

休日出勤中に便所でTwitter(X)を見ていると、「〇〇が◆◆な二次創作を見たい」というツイート(ポスト)が流れてくる。その手のものを自分がn年前から公開し続けていることを思い出す。相互フォローのアカウントが、第三者のアカウント(イラストを公開しておりフォロワー15~30程度、又は時々コラージュ画像を投稿するROMアカウント)のツイートをリツイート(リポスト)した上で、「△△って××だったんだ! 知らなかった~」と気付きをしたためている場面を見る。その話をだいぶん前に延々と続けていた自分の姿を思い出す。

これは、ネタかぶりがどうという話ではない。少なくとも私は、カップリングが同一であるのならば、いくらでもネタを被らせてほしい。「こういうのを見たい」というつもりで二次創作を延々とやってしまうから。自分で二次創作なんかしない方が幸せだ*1。他人に、私が好きな傾向のカップリング二次創作を続けてほしい。それこそ、憑りつかれたように。

しかし、現実はこれである。言葉は伝達の手段であり、他人に認知されないという点において、私は全く無意味な行いを繰り返している。

私と第三者が似たような内容をインターネットに発信した時、他人のアカウントから、他人の口から、他人の言葉で伝達されたものがより早く、より深く、通り良く反芻され、何らかの感銘を他人に残す。

もしも地動説を唱えたのが私のアカウントからだったならば、地球は未だに平面であることを誰も疑いやしないだろうという、傲慢な自信さえ芽生えてくる。僕は、地動説もとい(任意のカップリング)を信じています。

 


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こうなるとどこまで誰にも見られることなくオタク=キモ=文章こと二次創作小説を出していけるかの勝負、みたいな心地になってくる。他人に何かを伝えられた試しが無いような気がする。

他人に働きかけ、他人の手によって好きなカップリングを量産してほしいという気持ち半分(もう半分は今すぐこれを頭から出さないと妄想に憑りつかれて生活にならないからという強迫観念)によって二次創作をしてしまい、そうして頭から出して来た文章は時たま他人の頭の中にあるようなわだかまりを解消して成仏させるようなことはあっても*2、本懐である「他人を憑りつかせる」ようなことが、一度もできた試しがないような気がしてくる。

 

 

言葉というのは伝達の為の手段であり、聞き届けられない言葉はその内に耐えがたい腐臭を発するようになる。お前の話である。私と言う媒介を通して発信する内容というものは、すべてが全く存在していないように見える。

所謂同人オタクの間では、やれ同人誌を出した方がエライ 強い 物質の質量で殴れというのが決まり文句のように飛び交いますが、物質があってそこに存在しないという奇妙な現象がここにある。

人当たりの良いROM専のアカウントが発信する内容の方が、自我がありコネも何もないオタクの出す小説本なんかより、余程他人の心に何がしかを訴えかける。

読まれることのない小説本よりもツイートの方が、言葉の本懐を遂げている。少なくとも見られており、そしてTwitter(X)が存続する限り閲覧される可能性がインターネットを介して常に開かれている。

 

 

今ここで私の二次妄想が言葉の本懐を達せないのであれば、「百年後の腐女子に託す」気持ちでいればいいじゃないですかともなりましょうが、それにしたって、種族としての我々に百年後が果たして在るのかはさておき、石や紙や公文書に何らかの記録が残る政治史であるならば兎も角、データでしかないソシャゲのオタクなんてそんな、そこには今だって荒野しかないんじゃないでしょうか。荒野行動! 

 

 

そう、ソーシャルゲームの世界には「今」しか存在しない。

過去の一時期確かに存在した原典たるものは、内部データを「最適化」または「新情報」の後付けによって存在しなかったことになる。「当時」を知っている一部のオタクの間で、固有の文字を持たない人々の間で口伝される歴史のような有様となり、一部オタクの間ですら、認知に著しい差が生まれる*3

 

その上、SNSを使いこなす同人オタクの手にかかると、最早「原典」というものは意味を成さなくなる。最近当該ジャンル二次創作を公開し始めたオタクの人(仮にフランソワとする)が描く、無垢、寛大、純粋……な二次創作物、原作を見たその人が受けたイメージを元に描くなり書きだすなりしているのだろうそれを私がひそかに好んでいると、SNSを使いこなすオタクが匿名メッセージサービスからフランソワをべた褒めした後、「フランソワの描く絵のタッチで」「フランソワの解釈で」という枕詞を置いて、原作で一言も接点のないような/確かに作中でも接点はあるものの、カップリングオタクが望み・描くような睦まじいそれではないことが明白である「センスの悪い」カップリングを描くように要求する。

フランソワはオタクの社交に応じてカップリングセンスの悪い絵を描き、するとセンスの悪いオタクが、日陰に置いてある岩を何気なく足で転がした時に裏からわっと出てくる虫のような感じでフランソワに群がり、フランソワは最早、フランソワではなくなってしまう。

フランソワの語る言葉はカップリングセンスの悪いオタクの言葉と似たり寄ったりの内容になり、いわゆる「界隈」の常連と化すか、さもなければ、別のジャンルの話をするか、いつのまにかアカウントを消している。

このように、SNSで「界隈」に接したオタクには、どんな場合でも、どんな信頼も寄せてはいけない。原作に存在する観念が完全に欠落しているからである。

 


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このようにして、最早原典すら意味を成さないのであれば、こちら側も、「原典らしい」、自分の好きな二次創作の傾向をより他人にやってもらう為に、何らか手立てが必要ではないか。

自分の好きな二次創作を「今」、他人に無理やりやらせるために、帝王学や洗脳術のようなことを学習した方が良いのではないか。たしかに時々同人オタクにはそう言う類のアカウントが居て、定時後に皆ツイッターを見るから逆算して〇時に投稿して他人の手による二次創作もRTして「〇〇が最近流行している?」と他人に誤認させるというような手口を紹介してくれているのを見たことがある*4

不特定多数の洗脳まで行かずとも、他人と交流をし、人脈というソフトパワーによって他人に自分の好きなカップリングを無理に描かせるという手もあるだろう。ルールを守っていればいいという領域を離れ、闘争の領域に突入する。

 

「詰まるところ、どうしてあなたはそんなに不幸なの?」

(ミシェル・ウェルベック著、中村佳子訳『闘争領域の拡大』河出文庫、2018年、189ページ)

 

 

『闘争領域の拡大』を読んだ。これがミシェル・ウェルベックが最初に発表した作品らしい(てっきり『素粒子』だと思い込んでいた。)。

わたしはウェルベックの小説をこれまでにいくつか読んだことがあったが、これは読んだことが無かった。ちなみにウェルベックの小説の中で私が最初に読んだのは『セロトニン』で、次は『プラットフォーム』。なので本作のことは何となく(『セロトニン』のプロトタイプのようだ)と私は思いました。この作者は複数の作品で似たような主題を繰り返すので、読み手によって受ける印象は様々でしょうが、私の頭の中には剥き身のフロランが行ったり来たりしていた。

さらに予後が悪いことに、本作の登場人物は「僕」である。名前がない。『セロトニン』におけるフロランのように彼の来歴を知る紙幅もない。「僕」は当事者でもあり傍観者でもある。「僕」は中堅のサラリーマンで、今年三十になる。システムエンジニアの仕事をしており、同棲状態にあったと思われる恋人と二年前に破局して、家を追い出されている。

 

 難しいのは、ただルールに従って生きていればいいというわけではない、ということだ。なるほど、あなたはなんとかルールに従って(ぎりぎり、瀬戸際という時もあるが、全体としてはどうにか逸脱することなく)生きている。期日までに確定申告をする。期日通りに請求書を決済する。絶対に身分証(そしてクレジットカード入れ!)を持たずに出かけたりはしない。

 でも友達はいない。

(『闘争領域の拡大』、16ページ)

 

男性であることによって苦しめられる「僕」*5は全く以て私ではないものの、「疎外」の感覚を持ち続けている自分の中のオタクが、ウェルベックの出してくる身も蓋もないような、人好きしないいけ好かない主人公が、みるみるうちに孤立に沈み込んでいく様に、強く反応する。

 

 とはいえ、まだ自由時間も残っている。なにをしよう? どのように活用しよう? 人のためになるようなことをしようか? でも結局のところ、他人にほとんど興味がない。(中略)なにをしたところで本当の逃げ道にはならない。次第に、どうしようもない孤独、すべてが空っぽであるという感覚、自分の実存が辛く決定的な破滅に近付いている予感が重なり合い、現実の苦悩に落ち込むことが多くなる。

 そして、それでもまだ、あなたは死にたくないと思っている。

(『闘争領域の拡大』、17ページ)

 

※以下『闘争領域の拡大』物語核心部のネタバレを含みます。

 

 

 

作中「僕」と組んで11月~12月にかけて各地に出張するティスランは28歳の醜男であり童貞である。異性のパートナーを得るため作中で果敢に行動するものの、己の「理想」に固執するあまり手を変え品を変えということができないこともあってか、悉く玉砕する。

実際、彼が放り出された〝自由主義的〟な恋愛関係の市場において、中肉中背の醜男であるところのティスランにはほとんど勝ち目がない。人間関係における苛烈な資本主義が進行する中で、「機会」は一部の持てるもの、文字通りモテる者に極端に集中していく。

この作中世界においても「どうあれ愛は存在している。その結果が観察できるから*6」と「僕」は力強く宣言する。力強くというのは太字でという意味である。しかし愛と星とは同じようなものである。見えはする。遥か遠くにある。存在していることは知っている。とても手に届くものではない。

 

「僕に何ができる?」と彼は言った。

「オナニーしてこい」

「もう駄目だと思うかい?」

「そうだとも。ずっと前から駄目なんだ。最初から駄目なんだよ。(後略)」

(『闘争領域の拡大』149ページ)

 

愛には手の施しようがないというか、愛の域外に存在しながら己の信ずる「愛情」を求め奮闘し、ディスコで玉砕したティスランに「僕」は「人殺しになる」ように勧める。

この手の、平たく言うと「自分を惨めにした女を殺しに行く男」というテーマは、ウェルベックの他作品にも場面として現れる。『ある島の可能性』にあったかどうかちょっとはっきり覚えていないが、『セロトニン』には確実にある。

本作の当該シーンで「僕」はティスランに、「これは君に残された最後のチャンスだぞ」「君にナイフを突きつけられ、女たちが震え、命と引き換えにその若さを差し出して来たら、その時にこそ、君は本当の支配者になる。その時こそ、連中はすっかり君のものになるんだ。」*7と言って、ギラギラ光るナイフを握らせるが、結局、ティスランは何もしない。彼が求めているのは愛であって、血ではないから。僕は二人を殺したくない……

 

 地面を転げまわったり、剃刀で手首を切ったり、メトロでマスをかいたり、自分がそんなことをしかねないと感じたとしよう。そんなことをしても誰も注意を払ってくれない。なにもしてくれない。まるで透明で、破れない、完璧なフィルムによって、世の中から隔離されているようなものだ。

(『闘争領域の拡大』、124ページ)

 

日頃誰とTwitterで交流している訳でもないのに、急にwaveを求めたり、chocoboxを開設したり、poipikuに何か載せてみて、閲覧数がじりじりと増えたり増えなかったりするのを眺めているとき、「まるで透明で、破れない、完璧なフィルムによって、」隔離されているような感覚を、感じないことも無い。

自分の二次創作小説が読まれないことは、別にいい。読んでもらえればまあそれは嬉しいですが、それはそれとして、素人の文字列を好き好んで余暇の時間に見に来る人間は滅多にいない。というか、私の排出する二次創作なんか、見られなくたっていっこうに構わない。「こういう感じの二次創作」を他人がやってくれればそれで丸儲けである。

 

しかし、日本語文化圏の中に分母が何人いようと、「今」このカップリング名をTwitterを検索し続けているのが、自分一人なんじゃないでしょうかということに、薄々気付いている。数年前からそう。まるで隔離されているような感じで、一つだけなんか、様子のおかしいアカウントがある。お前である。

自分しかこの検索結果を注視していないので、他人が介在する余地がそこにない。こういう時、一体どうすればいいですか? ということを、壁に向かって問い掛ける。人に向かって問い掛けるような話でもないから、壁に向かって問い掛ける。当然、壁は何も言わない。時々家のどこかに住み着いている小さいクモが壁を降りてくる。

 

「そもそも過疎ジャンルをしゃぶっているからそうなるんじゃないですか?」と言われ得る一面はありますが、このカップリングにのみ特化した話でもない。過去に活動していたジャンルのカップリング(仮にAB)の二次創作小説をこの間思い付きでpixivに公開した時もそうだった。そうというのは「まるで透明で、破れない、完璧なフィルムによって、」隔離されているということで、「pixivに掲載されるABの二次創作小説がいかに素晴らしいか」をツイートで語っているオタクが、10万字の投稿に一切触れることがない。

「〇〇さんのAB本が素晴らしかった」

「ABやってた頃の△△さんとまたお会いするなんて~」

「ABとCD並行推しで■■さんの投稿が~」

カップリング二次創作に憑りつかれているのが自分ではなく、これ(10万字)を投稿したのも他人のアカウントで、すべてが他人の口からの言葉であったら、何かが大きく違ったのではないか? という純然たる疑問が、時々頭を過る。

 

ra927rita1.hatenablog.jp

 

言葉というのは伝達の為の手段であり、聞き届けられない言葉はその内に耐えがたい腐臭を発するようになる。お前の話である。私と言う媒介を通して発信する内容というものは、どうやら全く存在していないように見える。

 

なので時々、「僕の中で死んでいくものの豊かさは、本当に驚異的だ。」*8というような気持ちでサイトとかアカウントとかぜ~んぶ消して、「オタク」である10年越しのデジタルタトゥーを濯ごうかなと考えることもあるんですけど、存在を続けることは一つの抗議だよなという気持ちを思い出して、今もそのままにしている。

 

arts-and-spirituality.net

 

これを読み終わった後にTwitterのおすすめ欄に出て来た映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を見ようとしたら、冒頭からウェルベックの称する「愛」(認知症になり幻覚の中の世界で先に死んだ旦那との穏やかな二人暮らしが続いている)がこれでもかと溢れており、胸が詰まって見るのを止めた。

なんだか足に切り傷を作っているのを気付かないまま、海にその足を突っ込んだような痛みがあった。誤魔化すように眺めるTwitterのおすすめ欄なんかは相変わらず他人の好きなカップリングに溢れていて、今日もそこら中で星が瞬いている。

 

*1:同人小説なんかを書かずにいられる人生が一番幸せ - メーデー!

*2:「お陰で成仏できた」という趣旨のコメントを五年前に一度貰ったことがある。

*3:これはソーシャルゲームを愛好してしまったオタクが陥る典型的な様式でもある。ソシャゲは思わせぶりな文言をそこら中に散らすだけ散らしがちだから。

*4:悪魔に魂を売ってでも他者の書いた推しカプが拝みたかった人間が二年間かけてマーケティング活動に取り組んだ結果 #0|いりえ

*5:「僕」や僕の周辺で起こる物事(男性サイド)の多くは、「男性であること」によって生じる様々な社会的要求によって苦しめられている(ように見える)。例えば、「男たるもの」であるとか「望ましい男らしさ」というようなものだ。ただし、「僕」は「男であること」から降りたいとかそういう話は一切しない。自分の生まれ持った肉体だけが、自分にとって理解し得る唯一の現実であると認識しており、何となれば女というのはヴァギナであると認識している。本作は『プラットフォーム』や『セロトニン』程「男性性の体面を回復させるために存在するべきヴァギナ」という論調は無い。どちらかというと「愛されたいという欲望は人間のうちに深く存在する」(『闘争領域の拡大』、115ページ)にあるのではないかと思う。若さもなく、若かったとしても愛らしくなく、そもそも見た目からして醜く、他人にとって価値のある選ばれるような存在ではない、つまり「愛」の可能性からすっかり締め出されている存在であっても、「それはとんでもない深部にまで根を下ろしている」(同上)ので、後述する僕の同僚は「人生のベースがごっそり恥辱で出来ている」(これは作中で僕がちょっかいをだした同級生であるブリジット・バルドーに向けられた言葉なので彼とは違うものの、似たような位置に置かれた存在であることは確かだろう。)にも拘わらず闘争の心を失わない。

*6:『闘争領域の拡大』、118ページ

*7:いずれも『闘争領域の拡大』、150ページ

*8:『闘争領域の拡大』、201ページ