「国宝」を見た。
Twitterのおすすめ欄に時々出現する今の話題作で、これを見ようとお声が掛かったので自炊節制生活五日目にして目的ある外食、ここからタガが外れたように六日目にはある種のフィナーレを迎える訳ですが、それは兎も角、映画を見ました。
前知識
「国宝」を見る!ということになってから映画のページを見るとなんと上映時間175分で、175分ってことはつまりほぼ3時間 正確に言うと2時間55分。こんなんほぼインド映画じゃないですか! 私が過去に映画館で見たインド映画「RRR」は上映時間182分、Amazonで視聴した「バーフバリ」(伝説誕生)は138分。
こちとら「劇場版名探偵コナン ハロウィンの花嫁」(上映時間110分)では、渋谷の坂の上から下にある駅に向かってきらきら光るねるねるねるね色の薬剤がのったりと降り始める辺りから4DXの尿意を堪え続けており、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」(上映時間155分)では上映中に尿意が来ることを恐れてオムツ(パンツ型生理用ナプキン)を履いていった側。
「教皇選挙」(上映時間120分)では尿意は特になかったものの、映画館のあまり広くないシアターが満員御礼だったもんで、途中で酸欠状態になって、最も重要な見せ場の一つだろうローレンスの「確信」に関する初日の演説部分を気絶で聞き飛ばしてしまった。
また、尿意に限らず、映画館で集中して視聴し続けることに耐えられるのかという不安もあった。そこまで集中が持つのかという不安だ。
爆音とアクションで気がまぎれることがわかっていたRRRや、題材に関心を持っていた「オッペンハイマー」(上映時間180分)と比較すると、今回はなんか、関心が薄い状態で見に行く。なんか話題作、ですよね。歌舞伎の。歌舞伎のことをあまり知らない。観劇が趣味の親族からの受け売りで、歌舞伎座という建物があることは知っている。東京は銀座、京都はあの川の側。それぐらい。
以下現在上映中の映画のネタバレを含みます。
あらすじ
後に国の宝となる男は、任侠の一門に生まれた。抗争によって父を亡くした喜久雄は、上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎に引き取られ、歌舞伎の世界へ飛び込む。そこで、半二郎の実の息子として、生まれながらに将来を約束された御曹司・俊介と出会う。正反対の血筋を受け継ぎ、生い立ちも才能も異なる二人はライバルとして互いに高め合い、芸に青春をささげていくのだが、多くの出会いと別れが運命の歯車を狂わせてゆく...。血筋と才能、歓喜と絶望、信頼と裏切り。「歌舞伎」という誰も見たことのない禁断の世界で、激動の時代を生き抜きながら、世界でただひとりの存在へ――。
国宝 || TOHOシネマズ(最終閲覧日2025年9月13日)
観た直後の感想
『国宝』って原作から映画までかなり歌舞伎界に対して辛辣というか、閉鎖性とか血縁とか逆らって干されたら実力あっても手も足も出ないという暗部をこれでもかと描いて台詞でも念押してるのに、これだけヒットするとその辺全部無視して「素晴らしき哉日本の伝統」みたいな感想多いのビビりますよね https://t.co/tmlEItkIQV
— CDB@初書籍発売中! (@C4Dbeginner) 2025年8月20日
映画館で見た方がいいと思う
見る前は3時間映像に集中し続けていられるのかというのが心配だったんですけど、杞憂だった。ある意味でインド映画みたいに劇中で歌舞伎の演目シーンが何回かあって、この時舞台の上から歌舞伎の衣装から演技からをなめるようなカメラワークで見られるので迫力満点。
あと映画館って音質が物凄く良い。そしてこの映画は物凄く華やかな舞台の場面(ハレの部分)とそれ以外のなんか静かな場面(ケの部分)がきっぱり別れていて、後者の部分はなんか静かであることに意味があるので、これは見るなら映画館で視聴した方がいいと思った。
映画館以外で視聴すると面白さがちょっと変質しそうだな、とも思う。だって静かであることが重要になるシーンで、Amazonプライムの前で静かに「見ること」だけをしていられる自信がないし、舞台の華々しいシーンなんかでたびたびこの映画のメインテーマの前奏部分、何か取り返しのつかないことが起こる予兆のような環境音楽が流されて絶えず不安、なんか人生みたいだなみたいなことを思うことは、Amazonプライムとかの視聴ではちょっとなさそうなので、多分これは、映画館で見た方が良い。見て良かったと思います。
カメラワークがなんか、自分カメラのことよく知らないんですけど、人間の後頭部から全体を映すような場面が所々あり、人間の人生を背後霊の視点から見てるようで面白いな~と思った。人間ちゃんの一生懸命な生きざまを背後から眺める、異なる存在からの視点。
わたしは人間の愁嘆場なんか金だして見に行きたくないタイプなのであまり邦画って見ない*1んですけど、この映画では「作劇を盛り上げるために揉めてるっぽいな(偏見)」という場面がない。
なんか、登場人物間で善悪を声高に云々したり、破壊されたビルに取り残された要救助者を救いに行く! 人の命が掛かってるんだぞ! という盛り上がり方をしないので*2、見ていて取り立てて強く不愉快で苦痛を感じるというシーンは、個人的にはそんなに無かった。
まあ全体的に苦痛を感じる作りで、うっすら不愉快ではある。不条理な世界で吉沢亮(喜久雄)が四苦八苦する様が、そこにまざまざと描かれているからです。
苦しみ
この映画でじっとり全編に広がっている不穏な雰囲気というか、喜久雄の苦しみって、直接的にはどこから出現したと思いますか?
そもそも生まれたことが苦しみの始まりと言ってしまうと、それで話が終わってしまうんですけど、私は曽根崎心中の代役の部分だと思う。
他の人の「国宝」の感想とか原作小説を読んでいない状態なので、視聴したのであれば全員が当然発見するものを今改めて「再発見」している状態だろうと思いますが、日記のようなものなので、ここは目を瞑って下さい。
ところで各位は曾根崎心中ってどこで知りましたか?
あれって学校でやるんでしょうか。私は中高実質予備校に通わせて頂いて、いわゆる文化的な義務教育課程をほぼスキップしている*3ので私の、曾根崎心中はボーカロイドからです。
今動画見に行ったら「国宝見て思い出した」コメントが結構あった。同じようなオタクが結構いるのかもしれない。

なんばの駅から商店街のアーケードに沿って進むとビルの中に入口があり、何か水天宮みたいだな*4と思った
反対側にも出入口があって、鳥居等のいわゆる「神社っぽい」外観のある入口はそちら側に設けられていた。たぶんこの商店街側が裏手口なのかなと勝手に想像している。

曾根崎心中についてはボカロで曲知ってるというのと、神社のパネルで話のあらましを知っていたレベルなんですけど、このように歌舞伎をほぼ知らないオタクが多少知ってるレベルの知名度補正が入る演目の代役を、歌舞伎界の名家とされるその家の御曹司がやらないってことは、これは大変なことだぞというのが、この知識で何となくわかる。
あと作中で二回演じられる二人道明寺の道明寺も、たぶんだいたいのオタクは知ってる。FGOで清姫がサーヴァントとして実装されており、かなり初期に手に入る火力の高いバーサーカー鯖を使用している間に絆レベルが上がることで、演目としての道明寺を何となく把握することになるから。
若年世代の時代劇・忠臣蔵離れを嘆くような論調の記事だったりインターネットだったりを時々見ることがありますが*5、たぶんFGOとか刀剣乱舞あたりでその辺やったらオタクみんなわかるようになると思います。中華ゲーの隆盛と共にここ10年で「旧正月」がイベントとして認知されるようになった流れと似ている。これがソフトパワーによる文化戦なんですね。
とはいえ今FGOをメインでプレイしているオタクは、最早「若年世代」として想定されていないという可能性もある。10年選手のスマホゲームってサービス開始した時に生まれた人間が10歳になってるってことは17歳だった人間は27歳になってるってことだから……
どうしてこうなったんですか?
それは兎も角、曾根崎心中の代役ですよ。あそこで明確に何か狂ったように思う。
二代目が息子に代役を任せていれば、その後もまあ順当に話が進んだだろう。よりによって部屋子に代役をやらせるから、世襲で丸く収まる話が収まらなくなる。歌舞伎なんか所詮世襲でしょう。最後辛い目を見るのはあんたですよ。
でも、二代目はあそこで喜久雄を代役に指名する。まあそうだろうな、とこちらも納得ができる。だって芸事だから。喜久雄は生粋の女役で、あの時点で俊介よりも上等に演じることができるから。血を理由に息子にやらせて、息子にヌルい芝居をしてもらいたくない。息子だからこそ、息子っていうか、俊介には、芸をもっと刃物のように研ぎ澄ましてほしい。そもそも俊坊も芸に身が入るやろというところで喜久雄を引き取ってきているのもあるのだから、今回も同じようなことで、天性の刃物をここでは代役に選ぶし、俊介にもこれを見て襟を正して、研ぎ澄まされてほしいと二代目は思っているんじゃないか。
でもこれって、俊介サイドからしたらんなもんやってられっかというのもわかる。だってあんな刃物みたいな芝居する研ぎ澄まされたやつがいて、それでも自分が生まれた家に、「ここ」に自分がいると、他人が勝手に坊ちゃん坊ちゃんと下駄を履かせてくる。そうやって下駄を履かされたもんなんかになりたくない。俺は本物の役者になりたい。本物の役者になるには、息をしているだけで下駄を履かせてくるようなその「家」から逃げ出す必要があった。
そんではるちゃん オメーは何だ。なんでそいつと曾根崎心中というか、駆け落ちなんかしてるんですか? でもこれも、なんとなくわかる。彼女はやさしいひとだからだ。あとたぶん、自分の男に頼られたいのだ、彼女は。お父さん殺されて誰かが側にいないとどうにかなってしまいそうな刃物みたいなかわいそうな喜久ちゃんが好きなのであって、半一コンビだか何だか知らんけどみんなに芸見てもらって褒められてニコニコしてる売れっ子の側でニコニコしたい訳ではない。
才能だけで渡っていけそうな喜久ちゃんには自分が要らないのではないかと思ったところに、なんかいまにもダメになりそうな死にに行きそうな顔色の俊ちゃんがふらふらと出てくるので、はるちゃんは優しいから、本当は誰が好きなのかは兎も角、目の前で潰れてしまいそうな人の手を取って彼を支えるんでしょう。
いやそれでも、てめえ、どの面下げてニコニコしてるんだ? みたいなラストシーンという感じではある。 ラストシーンだっけ? 半半コンビの道明寺シーンだったかもしれないんですけど、良かったねみたいなツラしてそこ座ってるの有り得なくねえか? でも、彼女の視点からしたらそう。だって喜久ちゃんは芸に秀でていて芸を愛して芸に愛されているように見えるから、私なんかいなくたって大丈夫と、だからニコニコしてられるんじゃないですか?
どの面下げてっていうのは二代目もそう。実子を待って本当のギリギリまで宙ぶらりんにして、その上襲名したと思ったらその舞台に大穴空けた挙句に、実子の名前なんか呼びくさりやがって、しんじまえ。でも周りからしたら他所からいきなりなんか来た頭のないようなやくざもののことなんか知ったこっちゃないので、そいつがお坊ちゃんが得るべきものを全部横からかすめ取ったように見える。この偽物が。
じゃあどうすればよかったんですか?
やくざの息子になんか生まれたのが悪いんですか。顔がきれいすぎてあんたが顔に食われちまうと、作中の人間国宝に言わしめた顔が悪いのか。自分の巣から落っことされて死ねなかったからには、生き残るために他人の牌を食いつぶして生きるしかないねということか。とはいえ、頑張ってそれが実になってるんだから認めてくれという話がまあ通るような場ではない。
でも道明寺後のキャバクラで俊介が喜久雄に言う「可愛げが無いと」というのは、彼が御曹司で、血に守られているからこそある程度できるへらへら仕草でしょうというのもありつつ、曽根崎で駆け落ちしたはるちゃんと御曹司が結局死ぬまでうまく回り続けているように見えるのはなんだかんだ、御曹司が日の当たる場所に戻ったとてどっかで愛嬌があり、はるちゃん側に「この人は私が居ないとダメね」と思わせ続けることができたということかもしれない。
いや、ここは原作読んでないからこの夫婦のことはなんかよくわからないんですけど、彼は歌舞伎の界隈では絶対視されるような血の他に、愛される立ち回りのできる愛嬌のようなものがあったのでしょうという納得感がある。
まあ、その愛嬌は天性のものかもしれませんし、御曹司として育てられた年月によって育まれたものとも言えるので、その愛嬌含めて彼の引き継いだ「血」であるということもできるんですけど……という感じ。
なんか、納得ができるんですよね。枠組みそのものが歪んでいて不条理なだけで、人間の動きで何やこいつっていうのはあまりないように個人的には思える。人間でピタゴラスイッチしてる? 各人は苦界で必死に生活をしたり、自己実現を試みたりしている。
レイトショーで映画を見たので映画終了後あと10分で終電!だったこともあって終わった瞬間エンドロールで映画館から出ようかなと思ってたんですけど、エンドロールで黒背景から白文字が一瞬光るみたいに華々しく名前がぱっと出て来て、そのあと黒背景の中に沈んでいくように消えていくのが、作中の舞台に上がる役者各位のようで良かった。華々しく若手役者としてぱっと現れて、血を吐いたり一本足で汗みずくになったりドヤ街にある長屋みたいなところで布団に横たえられながら沈んでいく感じがある。
半半コンビでの曾根崎心中を舞台袖?からチラ見しながら「あんな風には生きられませんね」「救急車呼んどけ」と言った、あのミツトモ財閥の歌舞伎好きの社長のおつきの人みたいな 「歌舞伎なんか所詮世襲だろ」と言ったあの人 あの人が喜久雄を襲名以来「三代目」と呼び続けて何だかんだ近くにいるところ、関係性オタク(一人称)は凄い好きだな~と思いながらエンドロールを見終えて、劇場が明るくなっていた。あと10分で終電。走って駅に向かった。
改札でチャージが足りなくて跳ねられて、チャージしようとしたら財布に唯一残ってる一枚の千円札のはじっこに折り目が付いているのが気に食わないようで二回チャージを突っぱねられて、それにしたって他に手持ちがないので何とか折り目を伸ばしてチャージ機に入れるとかしていたので、危うく逃すところだった。
何に付けても映画館で見て良かったなと思う。
音が凄く良いのもそうなんですけど、映画館向けの映画。全ての情報を脳に一度に流し込むから、不条理の枠の中でピタゴラスイッチが機能するのであって、あらゆる映画がそうだとは思うんですけど、間にCMとか入り込むと、他人の人生かぶりつきで見せられているような没入感のようなそれが、若干薄れるんだろうなと思う。
作中の各人が苦界で頑張っているんですねとは思うし、それはそれとして俺の人生てめえの添え物じゃないんですけど、というのもある。
舞台上で人が再起不能になり沈んでいくたびに、喜久雄が祠で悪魔に祈ったことが何となく思い出されますが、彼が何で悪魔に祈るのかといったらそら、まともな手段では掬い上げられることがないことを既に痛いほど見せつけられているからじゃないんですか。
でもそれはそれとして、結局孤独に一人立っている彼を見るに、「悪魔さんに感謝やね」というのは、そうかも……でも悪魔ならもうちょっと順風満帆にどうにかなるんと違うか。何が順風満帆じゃボケ 目ぇついてんのかあいつ(終盤に出てくるインタビュアー)? オイどこ見とんねんカス。なに笑ろてんのや。お前の人生の添えもんと違うぞボケ 何しくさってくれとんねんダボ オイ どの面下げてそこおんねんお前。ヘラヘラしくさってのぉ……あ゛? みたいに 「国宝」見てからなんかずっとキレてるのが、頭の半分ぐらいにいる。もう半分はなんか、岩柱みたいになってる。生きることは苦しみ……みたいな面してる。
そもそもそれ自体が見ごたえのある歌舞伎の舞台をド迫力大画面特等席より特等席でがっつりみられるのは、見世物としてかなり面白いので映画館で見るのがいいと思います。画面が強いし音がいい。なんや綺麗なものですし。
*1:これには「普段自分の日常で見ない顔が知らん言語でもめてる分には他人事だから安心して面白がれる」というこちらの問題ある心根が現れている。
*2:これは個人的な「なんか見てて不快な/あまり好きではないシーン」を表明しているに過ぎない。
*3:大学受験の過去問でしか国語に触れていないという意
*4:Wikipedia記事の「水天宮」のあるところによると「大きなコンクリートの箱」にあるエスカレーターを登ると神社の社殿が見えてくるというかなり現代的な外観をしている
*5:とある先生が「今の学生は、忠臣蔵も知らない」と仰っていたので自分の学生に聞いてみたら確かに知らなかった→「昔はドラマでよくやってたけどね…」 - posfie(最終閲覧日2025年9月13日)